今日の「鶴見な人」vol.6
慶野 未来さん(喫茶店マスター)
喫茶に注ぐ
愛と情熱と未来
慶野 未来さん 鶴見中央在勤 26歳
「フットワークが軽いんですよ」
小柄な女性が、ほんわかした笑顔を見せながら、山百合を継いだときの様子をあっけらかんと語る。
今年で創業48年になる「珈琲専門店山百合」。京急鶴見駅からほど近い店舗は、「三業地」と呼ばれ、かつては花街として栄えたこともある地域だ。
そんなまちで、憩いの居場所として半世紀、歴史を重ねてきた喫茶店。「ドアを開けて入ってきてくれれば、居心地のよさと雰囲気は自信があります」。自身も惚れ込んだ山百合の魅力。そのままの形で残したいと奔走する毎日を送っている。
◇ ◇ ◇
2年前まで小学校教諭だった。
「小さいころから知らないことを知るのが好きな子でしたね」。勉強が嫌いじゃないからと選んだ大学の教育学科。「正直、やりたいことが見つからなくて」と数年前の自分をおどける。
子どもはかわいかった。今でも応援してくれるという学年主任だった教諭は、「私を社会人にしてくれた恩師」だという。
教諭生活の2年間、不満はなかった。それでも、もっと学びたいという思いが膨らみ、留学することを決めた。
時はコロナ真っ只中。「決めたらとりあえずやっちゃうタイプ」と言うように、感染がおさまったタイミングで留学しようと、校長に辞職を告げていた。
このときはまだ、喫茶店は訪れる大好きな場所だった。
◇ ◇ ◇
留学を決め周囲から上がった心配の声をさらに大きくしたのは、教諭を辞めて数カ月後のこと。
「喫茶店を継ぐと言ったら、家族は大反対でしたね」。そう一笑する。
共通の知人の紹介で出会った山百合。「喫茶店好きでしょ?と言われて」。留学後は戻るつもりでいた教諭の仕事。「お店に行くまでは喫茶店のマスターは思ってもみなかった」。
高齢で長く後継者を探していたという先代マスター。受け止めた思いと、ドアの向こうにあった景色で理由は十分だった。
「その日に『やります』と即決でした」
プリンアラモードにクリームソーダ…親に連れられて過ごした夢のような原体験。趣味となり巡り、社会人一年目は癒やしだった喫茶文化。日常にあった“”喫茶愛”が背中を押した。
「好きなものの役に立てるかもしれない」。そんな高揚感もあった。
◇ ◇ ◇
趣味は散歩。「時間があればどこまでも歩いて行っちゃう」とにんまり。
友人が住んでいたくらいで、縁もゆかりもなかった鶴見。常連客などから地名が出るたび、「わからないままではまずい」と、散歩好きと旺盛な学習欲を発揮。鶴見区内を歩き回っている。
「三ツ池公園や總持寺、沖縄のお店とか、個人店も含めて良いところがたくさんある」。歩いて知った鶴見の感想だ。
最近では、店舗の修繕費用のために取り組む寄付活動・クラウドファンディングのリターンとして、「おさんぽマップ」を製作中。散歩に拍車がかかっているという。
「喫茶好きは色々なところに行くので、山百合目当てで来てくれた人が鶴見好きになってくれたら嬉しい」と期待を込める。
◇ ◇ ◇
「料理も山百合で教わった料理しかできない」と自嘲するほど、まったくの“素人”だった。
頑固で天邪鬼と評する自身の性格。「猛反対されたことで、さらに『やってやる』となったのかも」と振り返る2年前。
やっていけばできると思っていたが、甘かった。
驚くほど上がらない売上。とにかく動こうとがむしゃらに働いた。「休みの日に事務作業やって。仕事をしない日がなかったですね」。
ひたすらに汗を流すハードワークの日々。1年が過ぎたころ、体調を崩した。
2週間の休養。ここまでやる意味はあるのだろうか―“限界”が頭をよぎった。
「ずっと悩むことなんかなかったのに、一気に来た」。初めて対峙する後ろ向きな自分。「私が居なくなっても、山百合はなくならないようにしよう」。“最後”までと決めたのに、再開後、待っていたのは常連客たちだった。
『大丈夫?』『やめないよね?』『やめないでね』―届いた温かな言葉たち。「終活のつもりだったんですけど、途中から本気で鶴見へ恩返ししようと思えてきて」。周囲の人たちに支えられていると再認識した瞬間だった。
◇ ◇ ◇
後継者不足の業界で、『明るいニュースだ』と言われたという山百合の継業。身内ではなく第三者が受け継ぐ自身の継業体験は、「一つのモデルになるのではないか」と考える。
「喫茶店文化が好きな若者で、私と同じように世の中に残したいと思っている人はいるはず」。ノウハウの提供も視野に入れる。
「まったくの素人が飛び込んで2年やれたんですから」。そう言って笑う一方、本当に自分が受け継いで良かったのか―悩むことは今もあると明かす。「それでも山百合を好きな人を忘れちゃいけない」
厳しくも温かい先代や常連客たち。「育ててもらっている」。その言葉に感謝がにじむ。
“喫茶愛”を原動力に、支えられ駆け抜けてきたマスターの道。「今はやめる気ないです」ときっぱり。若き2代目が、喫茶文化の“未来”をつなぐ。