今日の「鶴見な人」vol.8
安富祖 美智江さん(外国人支援団体代表)
このまちに住む
だから「鶴見人」
安富祖 美智江さん 仲通在住 56歳
「今年で31年目よ」
ブラジル・サンパウロで生まれた日系2世。来日は1993年のことだった。
最初の2年間に群馬・伊勢崎で暮らしてからはずっと鶴見に住む。
「一番長くなった。だからもう鶴見人よ」。照れもなく、さらっと言い放つ。
◇ ◇ ◇
1990年、国内の労働力不足解消のため日系人の単純労働を認めた改正入管法(出入国管理法)。いわゆる出稼ぎ労働者が目指したのは、各地のコミュニティだった。
大正時代以降、こちらも出稼ぎなどで沖縄からの移住が多かった鶴見には、おのずから沖縄にルーツを持つ日系人が集まった。
先に来日し、鶴見に住んでいた兄もその一人で、当初2年の予定だった来日を延長しようと、兄を頼って伊勢崎から移った。
ボランティアで相談窓口
2000年くらいまではただ住んでいただけだったという日本での生活。
急激に増加したブラジルなどの南米人。「周りから困りごとを聞くようになって。私が知らなかっただけかもしれないけど、昔はサポートがなかった」
実際、当時もらった母子手帳はすべて日本語だった。「参加していた地域のイベントや保育園で出来た“ママ友”のおかげで、どうにか必要な情報を手に入れられた」
その情報などをもとに、ボランティアでこなしていたブラジル人の相談窓口。ボランティア活動の限界を感じ、2000年、ABCジャパンを設立した。
若者の未来にチャンスを
2006年にNPO法人化以降、ブラジル人だけでなく、定住外国人を支援しているABCジャパンの活動。最も力を入れるのは教育だ。
「日本語が全くわからず来日する人がほとんど。サポートがないと、そのうちに犯罪に走る怖さがある」
子どもや大人の日本語教室はもちろん、2009年からフリースクールを継続。延べ200人以上、日本の学校に通えない外国の子どもたちの受け皿の役割も果たしてきた。
「若者には可能性がある。言葉の壁で絶たれるのはもったいない」。優しい日本語だけでは受験が突破できないと、高校や大学進学のためのガイダンスも毎年開催。
日本特有のルールがわかるようにと作成した日本語と外国語を併記した入学マニュアルは、区内の学校で重宝される。
「日本語がゼロからで大学院生になった子たちもいる」。チャンスを作っていると自負する。
原動力は「言葉の壁」
「親は日本語で、私はポルトガル語。ずっと一人だった」
沖縄から移住した両親とは、ほとんど会話がなかった幼少期。勉強のこと、生活のこと、親子でも言葉が通じずに教えてもらえなかった。
「学校に来て、言葉がわからない両親が恥ずかしかった」。多感な子供心。頼れず、全部自分で調べた。
「移民は大変なの。言葉がわからないから仕事が選べない。だから勉強する暇がないほど忙しい」
語学留学ではなく生活のための移住。日本語が通じた日系コミュニティがあったことも拍車をかけたのだろう。
「親になり、大変さがわかった」
日本で恵まれた二人の娘。愛する子どもをサポートできずに、募ったもどかしさ。
孤独も、越えられない壁も、自分のように体験してほしくない―それが原点であり原動力。今に続く気持ちだ。
イベント好きでつながる鶴見
「趣味がABC」というように、活動を楽しむ。
2008年、鶴見区が「鶴見区多文化共生のまちづくり宣言」を発表してから区とともに活動することが増えた。
「情報の多言語化が当たり前になって、住みやすくなった。他にはない支援もたくさんある」
団体の認知度も上がっており、学校の教諭が来日したばかりで日本語のおぼつかない親子を連れてくることもあるなど、地域で頼られる存在になっている。
「コミュニティで何とかする傾向は今もある。でも、鶴見はゲートがない」
閉ざされる門がないからこそ、隔てなくつながるのが鶴見の特徴。「イベントがたくさんあるから、出会いがあるんだと思う。私も好きだけど、みんなイベント好きだよね」。そう言って笑う。
同じ人間 ラベルつけないで
「ブラジルにいたときはジャパニーズで、日本に来たら外国人だった」
日本人と言われると思って訪れた国もまた異国だったが、「別にどうでもいい」と意に介さない。「場所が変わるだけ。ラベルをつけるのは良くない」。同じ人間。掲げるのはそう、「鶴見人」だ。
多文化のまちとして、地域や学校などで行われるさまざまなイベントや事業。
「ずっとやっていると考え方が変わる。だから止まっちゃダメ」
自身に続く鶴見人たちを笑顔にするため、これからも“壁”を乗り越えていく。(了)